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■There's No Place Like America Today / Curtis Mayfield (1975)■
2002.5.5. (Sun)発行


「今日のアメリカのような場所はどこにもない」
アルバムタイトルの訳である。

カーティス・メイフィールド。1942年6月3日生まれ、シカゴ出身。60年代に隆盛を極めたシカゴ・ソウルを根底から支えた人物である。音楽との関わりは10代の初め。祖母が説教師及びゴスペルシンガーだったことからカーティス少年も教会で歌い始めていたという。作曲を始めたのもこの頃のようで、その多くはゴスペルソング。幼少時代の環境がその後にも大きく影響していくことになる。

1957年、カーティスはそのゴスペルを大きなルーツとするコーラスグループ、インプレッションズを結成し、本格的な音楽キャリアをスタートさせ、翌58年早くも「フォー・ユア・プレシャス・ラヴ」をヒットさせた。このヒットこそインプレッションズの存在を知らしめることになると同時に、彼らのホームタウン、シカゴから生まれるソウルを確立・発展させていくわけだが、当時の社会的背景も見逃してはならないだろう。65年全米17位のヒット曲「ピープル・ゲット・レディ」は公民権運動をもとにして作り上げたものだ。印象的な歌詞、見事なコーラスワーク、インプレッションズの曲で最も好きな曲だ。

カーティスはインプレッションズに68年まで在籍し、グループはメンバー交代を何度か繰り返しながらもその活動を続けた。ソロに転向したカーティスは自身のレーベル、カートム・レーベルを設立し、ソロシンガー、プロデューサーとしてその活躍の場をさらに広げていった。ソロとしてデビューするのは1970年。独特のワウワウ・ギターを効果的に使ったサウンドは、当時のソウルシーンだけでなく、ロック界にも飛び火していく。ザ・バンドのギタリスト、ロビー・ロバートソンはインプレッションズ時代からカーティスのギター奏法に憧れ、初期の名曲「ザ・ウェイト」を作ったと発言している。

70年代前半のカーティスの諸作に駄作はない、とまで言い切れるほど重要作が目白押しだ。なかでも自己最高の売り上げを記録した『スーパーフライ』が最も有名だろう。アルバムは4週連続全米No.1。シングル「フレディの死」もトップ10ヒットを記録するなど世界にカーティス・メイフィールドの名を広めることになった。『スーパーフライ』は同名映画のサントラであり、映画とともに入門編としてオススメしたい。本人もちょい役で出演している。このシーンは最高にカッコいい。

さて、本題である『ゼアズ・ノー・プレイス・ライク・アメリカ・トゥデイ』の発表は1975年。たしかな実力のもと商業的成功を手に入れた70年代初頭の頃と比べると実力はさらに円熟味を増してはいたが売り上げは伸びなかった。アルバムはストリート・ギャングだった友人ビリー・ジャックが撃ち殺されてしまう、という物語を綴ったシリアスな「ビリー・ジャック」で始まる。ワウワウ・ギターにパーカッションが絡み、最小限の音数で聴き手をこの物悲しくも憤りに満ちた物語へと誘い込む。収録曲中唯一のラヴソング「ソー・イン・ラヴ」でようやく心が緩むが、全体的に重い空気が支配し、不況や失業、貧困といったことをテーマにしている。

カーティスは70年の『カーティス』以来、ライヴ盤やサントラを含めると75年までの5年間でアルバム8枚というハイペースで制作、発表している。間違いなくこのアルバムは初期カーティスの集大成ともいうべき内容だ。同時に彼にとって大きなターニングポイントとなったアルバムでもある。

カーティスの苦渋や苛立ちを爆発させたこの重い緊張感はスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』に似ている。唯一の違いは時代にある。『暴動』の発表は1971年。ファンクの名盤、として誉れ高い『暴動』は非常に異質で名盤というより異盤だ。粘着質なトゲが体中にまとわりつくような感覚。1971年という時代が作り上げたものでもあると思う。『〜アメリカ・トゥデイ』が71年に発表されていれば評価も違っただろう。

車に乗った白人家族を使った看板の前で、食料の配給を待つ黒人たちをジャケットにしたアルバム。この皮肉極まりない取り合わせこそ、当時のカーティスであり、見た目は温厚そうな人が一瞬見せる真剣な表情を思わせる。ドキッとするが最後まで見てみたい好奇心にかられる。

ソロ転向から5年、音楽家として熟してきたカーティスの世界観に世間は少々戸惑いをみせた。70年代前半はロックとソウルが音楽史上最初に接近した時代で、カーティスを筆頭にマーヴィン・ゲイ、スティーヴィ・ワンダー、ダニー・ハサウェイらが魅力的な活躍をみせた。彼らの功績によりソウルミュージックは大きな変貌を遂げ、ニュー・ソウル・ムーヴメントを確立させた。シーンをひっぱっていたのは言うまでもなくカーティスだ。1975年、ムーヴメントの牽引者としてカーティスはニュー・ソウル時代の終焉を告げるアルバムを制作したのである。これを聴かずしてカーティスを、そしてニューソウルを語るべからず。