bannai452007-10-14

■Gumbo / Dr.John (1972)■
2003.2.5. (Wed)発行


音楽ファンにとってニューオーリンズは特別な響きとある種の匂いを放つ。憧れの地と言っても差し支えないだろう。70年代初頭、ロック界においてニューオーリンズの存在はまだまだマイナーな存在でしかなかった。しかしある1枚のアルバムによって全米はおろか、日本でも注目を集めることになる。ニューオーリンズ音楽の水先案内人、Dr.ジョンが怪盤『ガンボ』を制作したのは1972年のことである。

Dr.ジョンことマルコム・レベナックが生まれたのは1940年11月21日、言わずもがなニューオーリンズでその産声を上げた。生家は黒人の多い大学の近くで、父親がジュークボックス用レコードのディーラーを仕事としていた、という環境ならばマルコム少年が音楽人として早熟であった、ということは想像に難くないだろう。ブルースやリズム&ブルーズ、ジャズなどのレコードを手当たり次第に聴き漁る毎日。10代のはじめにはニューオーリンズの名人才人のライヴに足しげく通っていた。音楽人として覚醒したのは1953年頃、13歳という若さで主にギタリストとして活動し始めているというから驚きだ(僕が13歳の頃は野球しか知らなかった)。ファッツ・ドミノやヒューイ・ピアノ・スミスなどの現場に携わり、いわゆる50年代のニューオーリンズR&B黄金期を経験している。活気に満ち溢れたニューオーリンズだが、60年代前半頃から衰退していくことになってしまう。同時にマルコム青年はこの時期に投獄されている。様々な要因があるようだが、人種差別による理不尽な理由で逮捕されたという。服役後、音楽シーンの沈滞や前述のプライベートな問題からニューオーリンズに見切りをつけ、活動の場をロサンゼルスへと移す。その頃すでにロサンゼルスにはニューオーリンズを離れたアーティストが辿り着いた場所でもあった。ジェシーヒルやロニー・バロンなど旧知の仲間の存在が彼を動かした理由のひとつかもしれない。

向かう先は60年代前半のロサンゼルスを牛耳っていたフィル・スペクター。この奇人変人のもと、名門ゴールド・スター・スタジオを中心にセッションマンとして活動した。シェールやジャッキー・デ・シャノンなどのアルバムに参加している。

60年代後半、マルコム青年は長年の仕事仲間であり親友でもあったロニー・バロンにある提案を持ちかける。

ニューオーリンズブードゥー教史上の伝説的人物、Dr.Johnというキャラクターを使って、レコード制作をしてみてはどうだろう」と。

シャイなロニー・バロンは派手で奇怪なそのキャラクターは自分の個性には合わない、とその勧めを拒否する。結果、発案者であるマルコム・レベナックがそのドクター役を演じることになった。このときロニーが快諾していたならば、現在我々が知るDr.ジョンは違う人物であった、ということだ。そしてマルコム・レベナックがDr.ジョン名義で制作したアルバムがデビュー作『グリ・グリ』である。ブードゥーロックと呼ばれるその音楽性は極めて異質だ。ジャンルレス。まさしくブードゥーロックというに相応しく、サイケデリックや少々ジャズの要素も窺えるかもしれない。難解な音楽がゆえ、世間の評価はやはり難色を示すがDr.ジョンは71年までこの路線を続ける。68年から71年までのDr.ジョンが立っていた場所はあくまでもロサンゼルスだったのだろう。故郷ニューオーリンズに回帰するのは翌72年。『ガンボ』が見据えた場所は、ロサンゼルスではなくニューオーリンズだった。一度は見切りをつけた故郷を想い、少年時代に体験した先達の音楽を蘇生させる。

全12曲のうち、オリジナル曲はわずか1曲で、残りの11曲は全てニューオーリンズR&Bのカバーという構成で『ガンボ』は成り立っている。故郷への愛情と敬意に満ち溢れた内容だ。プロフェッサー・ロングヘア、ヒューイ・ピアノ・スミス、アーチーボールド、アール・キング、ジェイムス・ウェインなどの名曲がずらりと並ぶ、まさに名盤であり怪盤である。『ガンボ』を入り口としてニューオーリンズR&Bにのめり込む人間を僕は何人も知っている。もちろん僕もそのひとりである。

サイケデリックの華が咲き乱れ、サマー・オブ・ラヴ、ラヴ&ピースな60年代が過ぎ去り、一転して極私的な歌を歌うシンガー・ソングライターたちが台頭した70年代前半。同時にザ・バンドCCRなどによって南部音楽の見直し作業も注目を集めた時代に、Dr.ジョンは直球一本、ニューオーリンズR&Bで勝負した。結果は現在我々が知る通りだ。ロック界では翌73年にリトル・フィートが『ディキシー・チキン』で呼応し、日本では若干のタイムラグがあったが久保田麻琴細野晴臣大滝詠一らがいち早くニューオーリンズR&Bを彼らなりの解釈で自身の音楽に取り入れた。リトル・フィートも日本の返答もリズムが重視されていた。これがセカンドラインといわれるニューオーリンズ特有のリズムだ。彼の地では葬儀に際して行われるブラスバンドを伴った行進(マーチ)があり、行きはファーストラインと呼ばれ悲しい曲が演奏される。そして帰りはセカンドラインと呼ばれ一転して楽しい曲で死者を見送る習慣がある。セカンドラインのルーツはここにある。

昨今、カバーやトリビュートという言葉がねじ曲がった表現で氾濫している。愛情や敬意というものを媚びというものに変換させているような。これでは誤変換である。現在のそんなシーンに一石を投じようとしている若者がいる。ウルフルズトータス松本が初のソロアルバムをリリースするという。それも全曲ブルースやリズム&ブルーズ、ソウルミュージックのカバーで構成されている。そのアルバムを聴いて頭の中をよぎったのは『ガンボ』だった。同じように愛情と敬意に満ち溢れている感動作だ。日本もまだまだ捨てたもんじゃない。

Dr. John's Gumbo

Dr. John's Gumbo