good time music .com 41号

bannai452007-12-08

ジョン・レノンの命日■
27年前。当時3歳だから記憶はないが、ビートルズファンだった父のそばで鼻水を垂らしながらテレビのニュースを見ていたかもしれない。数年後、小学校低学年の頃、追悼番組を見て「志村けんに似ているな」と思った。誰がどんな曲を歌ったかなんて覚えていないが、日本人アーティストが多数出演しそれぞれが歌っていた。音楽に興味を持たなかったコドモにはその程度のものだった。小学生の僕はジョン・レノンよりも圧倒的にドリフを好んでいたのだ。

15歳のとき、押し入れから何かを探し出そうとしていた。今となってはそれが何だったのかどうでもいい。押し入れから出てきたのはビートルズの『ラバー・ソウル』と『リヴォルヴァー』のLPだった。父のものだ。2枚とも日本盤だった。その奇妙なジャケットに少々たじろいだ。おそるおそる中に入っているレコード盤を取り出すと、赤いビニールのレコード。表面にはカビが生えている。「レコードとは黒いブツではないのか?」と頭の上にクエスチョンマークがいくつも現れた。「いや、黒くないからカビがあるのかも」などと考えたりもした。どちらにしても押し入れに何十年と放置していればカビのひとつやふたつくらい生える。その日、押し入れからは他に「電線音頭」のシングル盤、ヴェンチャーズの『ライヴ・イン・ジャパン』も一緒に発掘されたが、インパクトの強さからビートルズの2枚に興味を示した。

レコードを聴いてみようにも我が家には肝心のプレイヤーが無かった。仕事から帰った父にプレイヤーをせびろうとは思わず、とにかくこの2枚のLPをいつ手に入れたのか、何故放置していたのか、など質問攻めにした。プレイヤーよりもそこに詰め込まれている音が気になったので、数日後近くのレンタルCDショップ「ABA」に行くことにした。迷わず『ラバー・ソウル』と『リヴォルヴァー』を借りた。なんとなく年代順に聴いたほうがいいかもしれない、と漠然と思い『ラバー・ソウル』から聴いてみた。「ドライヴ・マイ・カー」が流れる。カッコ良かった。全身に電流がほとばしるほど、ということでもなかった。「おおー、なんかよぉわからんけどかっこええやんか」程度だ。『リヴォルヴァー』は曲によって全く理解不能だった。予備知識なしで耳に飛び込んでくる『リヴォルヴァー』は極めてドラッギーである。

さらに数日後、僕は『ビートルズ・フォー・セール』のCDを買った。そこに収録されている「ミスター・ムーンライト」が聴きたかった。というより父に聴かせたかった。LPを発掘した日、ビートルズのことを話す父から教えてもらった来日時のテレビニュースのこと。飛行機から降り立つハッピ姿の4人が画面に映し出されるときにガツーンと流れた「ミスター・ムーンライト」の衝撃や、ニュース映像のカッコ良さをニマニマしながら話す父は、嬉しそうだった。そして僕もニマニマしていたと思う。

地味だったが『フォー・セール』は僕のハートを鷲掴みにした。CDのライナーでボブ・ディランという名前を初めて見ることにもなった。カセットにダビングした『ラバー・ソウル』と『リヴォルヴァー』、そしてCDの『フォー・セール』を何度も聴き、ディスコグラフィを眺めながらアルバムを揃えることを決意した。年代順に。

あの日、押し入れからLPを見つけなければ僕の人生は全く違ったものになっていたかもしれない。高校に進学し無理矢理にでも野球を続けていたかもしれない。卒業後はなんとなく大学に入ってなんとなく卒業してどこかに就職していたかもしれない。大阪へ出てくることもなかっただろう。そもそも、父がビートルズのLPを捨てていなかったことが僕の人生を大きく変えてくれたということだ。

ビートルズから始まった僕の音楽ライフは、高校生活の大半を音楽と過ごし、大滝詠一の音楽に出会ったことで猛烈にそのスピードは増した。山下達郎の『サンデー・ソングブック』を毎週テープに録音したり、『レコード・コレクターズ』を熟読したりするオタク少年に変貌した。19歳になる頃、大阪で一人暮らしを始め音楽オタクのオトナにたくさん出会い、現在に至る。悪くない人生だ。ジョンの命日にそんなことを思う。